ときがわカンパニー代表の関根です。
2018年2月28日(水)15時~16時30分@iofficeで「比企の歴史を学ぶ」勉強会を開催しました。
講師は鳩山町在住の田村さんです。(田村さんとは、鳩山町コミュニティマルシェの菅沼さんを通じて知り合いました。)
勉強会で学んだ事を、私の理解の範囲で共有します。
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「比企の歴史を学ぶ」
・日本史で「比企」が輝いた時代が2つあった
1)古代「須恵器」生産コンビナート
2)中世 鎌倉を支えた武蔵武士団の大拠点
・歴史では「基準」(年と人)が大事。
・239年 魏王が卑弥呼に銅鏡を送った。
東松山氏高坂神社で「三角縁神獣鏡」が見つかった。埼玉ではただ一つ。
・ヤマト王権とは、東山道を通じて、武蔵はつながっていた。
東山道武蔵路が、比企を縦貫。
・471年 ヤマト王権と上野国(群馬)の首長との密接な関係を示すのが、
埼玉古墳群で見つかった鉄剣(埼玉にある4つの国宝の一つ)
・南比企須恵器窯跡:古代のコンビナート(分業、大量生産)
丘陵、良質な粘土、燃料(薪)と水が、立地条件。
朝鮮半島の技術(高温焼成)で作られた土器。工人集団の発生。
・前方後円墳に代わる豪族の権力の象徴として、氏寺が建立された。
その寺院に瓦を供給していたのが、南比企須恵器窯跡。
・中世の大道「鎌倉街道」上道を通って、源頼朝が善光寺に参拝。
鎌倉街道上道からときがわの大附集落を抜ける「慈光寺道」を通り、
源頼朝が、何度も慈光寺を参拝。
慈光寺は、鎌倉幕府の祈念寺。国宝「慈光寺経(金泥装飾経)」がある。
・武蔵の国には、多くの武蔵武士団が割拠していた。
「武相の兵は、天下に敵なし」
・「名字の地」
武蔵武士は、先祖代々の領地の名前を、自らの氏族の名前とすることが多かった。
先に地名があって、そこにすんだ人達が、その地名を自分達の名字とした。
「比企」は、元々はアイヌ語であったという説もある。
・1221年 承久の乱 京都朝廷に対して、鎌倉幕府が戦い勝利。
これによって武蔵武士が西国に進出。
・比企は「中世城館跡の優れた保存地域」と言われている。
松山城跡、杉山城跡、小倉城跡は、国の指定史跡となっている。
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非常に勉強になるエキサイティングな時間でした!
今回のような「比企について学ぶ」会は、今後も時折開催したいと思います。
田村さん、ありがとうございました。