「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」2

(上の写真は、関口会長自宅前の材木置き場)

「座れ」。関口定男さん(70)が中学1年の頃、父・英三さんは、いつものように関口さんを自宅の居間で正座させた。「言っておきたいことがある」。英三さんは、厳しい表情で3つのことを伝えた。「ワシがいつ死んでもいいように覚悟しておけ」、「勉強はするな」、「絶対に政治家にはなるな」————。

関口さんは1948年、玉川村(現・ときがわ町)で材木業を営む英三さんと母・貞子さんのもとに生まれた。終戦間もない混沌期、英三さんも、貞子さんも配偶者を亡くし、再婚だった。それぞれの連れ子4人の娘を育てるなか、家業の後継となる待望の長男として関口さんが誕生した。

(幼少期の関口定男さん)

玉川村は農業が中心で、当時、材木業を営むのは父だけだった。自宅の前には材木置き場があり、山から切り出されたスギやヒノキの丸太がトラックで次々と工場に運びこまれ、のこぎりがキーンと音を立てながら角材に加工していく。木くずは銭湯、木の端きれ「せごっぺた」は瓦店で使用する燃料として運び出された。幼い頃の関口さんにとって、材木工場は「木の香りがする遊園地」だった。丸太に向かって野球ボールを投げ、予測のできない方向に跳ね返るボールをキャッチして練習したり、木くずの山に飛び込んだりして遊んだ。

(父・英三さん。材木工場の前で)

(親戚と遊ぶ学生時代の関口さん(上))

姉とは10歳以上離れ、末っ子の長男。しかし、決して甘やかされることはなかった。小学6年の頃、修学旅行の前夜、布団に入っても、興奮して寝られずにいると、隣で寝ていた父に「定男、起きろ」と、布団の上で正座させられた。「修学旅行前に寝られないなんて、そんなじゃ、しょうがない」と、約1時間、叱られた。食事はいつも父が上座、関口さんは末席で、鯛などのご馳走があるときは、決まって父が先に食べていた。家出をしたいと思ったことも何度もあったが、母が「うちから定男ちゃんが出て行ったら……」と言って、いつも影で優しく支えてくれた。

ある日、中学生だった関口さんに、父は3つの生き方について諭した。関口さんは居間で父と二人きりになり、正座しながら教えを聞いた。一つ目は、「ワシがいつ死んでもいいように覚悟しておけ」だった。当時、父はすでに66歳。いざという時の長男として立ち振る舞う自覚と責任を持てと伝えられた。二つ目は、「勉強はするな」。商人の子は読み・書き・そろばんだけできればいい。勉強をしていい会社に入るのではなく、材木業の後を継げという意味が込められていた。

そして、三つ目は「絶対に政治家になるな」だった。父は、玉川村の村長を担った経験があった。妥協を許さず、議会と衝突することも少なからずあった。政治家は、政治に奔走し、財産を賭して取り組む「井戸塀政治家」が本来の姿。関口さんには、きちんと生業を立てることに専念してほしいとの思いがあった。

その後、関口さんはその教えを守り、学生時代から独立心を持ち、27歳で材木業の社長になり、後を継いだ。「父にはいつも突き放され、這い上がることを求められた。でも、そのおかげで今がある」。

父は82歳で他界。30歳の頃だった。亡くなるまで、数年間入院していたが、ほとんど見舞いも行かなかった。父には「いないもんだと思え」といつも言われていた。若いことは言い訳にならず、社長として従業員に飯を食わせていかなければならない。必死になって働くことが、父の願いだと思った。父が亡くなったと知らせを受けても、涙は流さなかった。

(母・貞子さん(左)と父・英三さん)

「私にとって父は反面教師。商売も父と反対のことをして成功してきたところもある」。しかし、それから約20年後。奇しくも、父と同じ道を辿ることに。父の三つ目の教えだけは破られたが、それは父の生前の功績が影響した。「お父さんもやっていたから、定男ちゃんにもぜひ村長になってほしい」。周囲の期待を受け、玉川村長に就任することになった。(辻和洋)


シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。

以下のボタンでシェアできます