「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」1

(「i office」で若手起業家らにアドバイスを続ける関口さん) 

 ヒノキの香りが漂う一室にパリっとしたスーツ姿で、訪れる人を出迎える。埼玉県ときがわ町役場の脇にある起業家支援施設「i office」で、今年2月まで5期19年、同町の初代町長を務めた関口定男さん(70)が、若手の起業家支援に取り組んでいる。長年、民間企業の経営者、自治体の首長を務めてきたキャリアを生かし、「活気のある町になってほしい。起業家を育てるのもその一つかな」と、笑顔で若い人々に助言を続けている。
 ときがわ町は2006年、「平成の大合併」で、旧玉川村と旧都幾川村が合併して誕生した。全国各地の合併した町村では、行政と住民の連帯感の弱まり、住民サービスの低下、財政計画との乖離した行政運営など、様々な課題が浮き彫りになるなか、同町は「合併の成功例」として取り上げられる。
 埼玉県中部に位置し、人口約1万1000人、山林が約7割の面積を占める町は、他の自治体と比べて、大きく異なる特徴があるわけではない。しかし、コストを大幅にカットして短い工期で建物の改築ができる「ときがわ方式」を生み出し、バランスシート(貸借対照表)を導入した財政運営によって合併特例債の返還額を上回る基金を積み上げ、さらには未就学児の医療費無料化を全国に先駆けて成し遂げた。これらの画期的な町政に手腕をふるったのが関口さんだった。
 

(「ときがわ方式」により木質化された公民館。約40年前に竣工された建物だが、内装はヒノキ張りで真新しさを感じさせる)

 関口さんは、旧玉川村出身。材木業を経営する一家の待望の長男として、父が53歳の時に生まれ、会社の後継ぎとして厳しく育てられた。高校2年の時、ヘルニアを患い、約半年間入院。出席日数が足りず、留年を余儀なくされた時、このまま留年するか、それとも転校するか、父に相談した。「15、6にもなって、相談してくるやつがいるか。自分で決めろ」。父からは徹底して自ら決断することの大切さを教えられた。
 22歳の頃、父の会社に入社。山から木を切り出し、製材する仕事を担った。ある日、会合で知り合いの郵便局長に声をかけられた。「定男ちゃんは、3回頭を下げてやっと周りから『腰が低い人』って見られるからね」。父は数年間、村長も歴任。村の有力者だった。そんな家の息子は、人の何倍も頭を下げないと周りからは謙虚だと思われない。郵便局長の言葉を常に心に留めてきた。
 27歳で社長になり、傾きかけた会社を立て直し、約20年間、事業を拡大。その後51歳で、「お金儲けはもうそろそろいいんじゃないの」と周囲に促され、半ば当時の村長に後継指名されるような形で玉川村長に出馬、無投票当選した。政治の世界でも、これまでの教えは生きた。2006年、旧都幾川町と合併して町長となった際には、町職員の意識改革を徹底した。「まずはあいさつ。お礼とお詫びは早くする。住民と信頼関係を築くことが必要」と、住民サービスの改革は、町職員の意識から行き届いていった。また、決断のスピードにもこだわった。「決断を遅れさせないこと。失敗で終わらせないこと。失敗したらそこからまた修正する決断をすればいい」

(「最近は移住者も増えている。活気のある町になっていけば」と願う関口さん)

 経営者としての力量を存分に生かしたことで、現在では、町の財政運営は安定し、同町の年間入込観光客数も100万人を超えた。「町の基礎づくりができた」として、任期満了に伴い、現・渡辺一美町長にバトンタッチした。
 最近、町外の人から「なんか、ときがわは活気があるよね」と言われる時がある。それが何よりも嬉しい。「これからは一町民として町の活性化に携わりたい」。小さな町に活気の芽が息吹き始めている。(辻和洋)


シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。

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