ときがわカンパニーイタバシ事業部の林です。
「板橋区とときがわ町を姉妹都市にする」夢を抱く中、
「板橋区を通って慈光寺参り」する道がないかを探そうと思い立ちました。
比企郡の歴史研究家である、田村ヒューマンアカデミーの田村純一さんに相談。
まずは以下の回答をいただきました。
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一般認識として、江戸期には夥しい庶民達(江戸の町人)が寺社参り(遊興も兼ねた)をしていました。
時代劇で見るような武家社会でなく、ダイナミックな庶民の世界がありました。
そこで、「慈光寺参り」も人気でした。
私は、江戸の庶民達は慈光寺のみではなく、当時人気だった「高山不動尊(飯能)」と「子ノ権現(飯能)」を合わせてお参りしたものと考えています。
ご質問の「慈光寺道」ですが、板橋~川越は「川越街道」で、川越から所沢へ向かい、所沢から「秩父甲州往還」で飯能に行きます。
飯能で、子ノ権現と高山不動尊に参拝、高山不動尊から「慈光寺道」が続いていました。
奥武蔵グリーンラインには、それを示す「道標」(右子ノ権現、左慈光寺)も残っています。
中世(鎌倉期)にも飯能からの慈光寺道はあったことが地図に記されています。
しかし、多くの庶民が参拝したのは「江戸期」です。
まだ調べてみます。
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ダイナミックな庶民の世界、楽しそうな風景が浮かんできますね。
また、せっかくの旅行なら、色々周りたくなるのは私たち今の庶民も同じだと思いました(笑)
その後、田村さんからさらに嬉しい情報が!
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江戸期の道の「文献」をやっと発見しました。
板橋から川越まで「川越街道」、川越から「川越児玉往還」で繋がっていました。
そして、鳩山町教育委員会のTさんから、
「県道越生・東松山線を越生方面へ向かい、上熊井集落センター前から県道をはずれて旧道が小川沿いにあり、その分岐点に馬頭観音碑があります。」
「その「馬頭尊」という文字の右下方に小さく「右、ちかう山」と刻まれています。
「この「ちかう山」が「慈光山」=慈光寺をさすと考えられ、付近を慈光寺参りの道が通っていたと推定できます。」
との情報を得ました。
先にご連絡した「飯能経由」の慈光寺道とは別に、川越児玉往還で鳩山からときがわに続く慈光寺道も利用されていたこと、慈光寺から飯能の「子の権現」に向かった巡礼者もいたと思われます。
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メールを読んで、これは是非この目で見たいと思い、現地を目指しました。
東松山を9時に出発。
車で上熊井集落センター前へ。
天気予報は曇りのち雨なので、降らないうちに写真を撮ろうと車を降りました。
近くで畑仕事をしていた方に尋ねてみました。
「この辺りに馬頭観音碑はありますか?」
「家にあるよ。」
!!
案内してもらうと・・・
残念ながら、そのものではありませんでした。
お話を聞くと、石碑はこの辺りにはそこかしこにあるそうです。
別の場所に移動。
住民の方にお話を聞くと、
「あれかなぁ・・・」
と案内してもらいました。
残念ながら・・・
思い立ち、教育委員会のTさんに電話。
急なお願いにも快く説明してくれました。
ただ、調査は随分と前なので記憶があいまいなこと、またもしかすると草ぼうぼうで発見は困難かも、とのお話。
さまようこと数時間・・・
!!
ありました!!
風化も進み、見辛いですが確かに、
「右、ちかう山」
「左、子こんけん」
と書いてあるようです。
見つけた時、興奮して走ったら大人になって初めてくらい派手に転びました(苦笑)。
(自撮りに慣れてなく、アングルが・・・)
ともあれ、板橋区からの慈光寺道はあったということが証明されたと思います。
田村さん、Tさん、貴重な情報をどうもありがとうございました!
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