必死に会社を守り、成長させた経営者時代
当座預金マイナス150万円————。関口定男さん(70)は、「全部渡すから」と父から製材会社「太平工業」を託され、社長になった。27歳の頃だった。従業員のほか、専属の大工、請負業者らを入れると計約60人。若手の自分が、多くの人々の生活を保障していかなければならない。プレッシャーが重くのしかかった。
太平工業で働き始めたのは、22歳。父の勧めで大学に進学していたものの、景気の悪化もあってか、「大学に行っている場合じゃない」と父から中退を促され、退学して太平工業に就職した。最初は、地下足袋を履き、職人が切り出す丸太をトラックで土場まで運ぶ仕事を担った。製材所では木材を加工する作業を手伝った。「会社の番頭さんが、ぱっと山を見て、その区域からどれくらいの木材が切り出せるか、その場で体積を目算した。私は1週間かかって計算したら、番頭さんの数字はほぼ当たっていた。これは勝てないなと思った」。経験が物を言う職人技に驚いた。
「社長の息子。しかも若い。取り柄も何もなければ、バカにされてしまう」。そう思った関口さんは、仕事終わってから専門学校に通い、2級建築士の資格の勉強を始めた。夜な夜な建築法、経理、製図などの勉強をしながら、製図板で設計図を描く技術を培った。「生活がかかっていた。建築科の学校を出ているわけではないから、人が1回やるところを3回やる。線を引く筆圧一つにもこだわった」。約1年間の努力が実り、一発で建築士の資格を取得した。そのおかげで、製材と建設の両方の事業を扱える企業となった。
(太平工業の慰安旅行先での記念写真。前列真ん中が関口さん。1973年11月12日)
その後、若くして社長に就任。「とにかく早く歳をとりたかった」と思うほど、周囲から「社長なの?」と驚かれたこともあった。当時、住宅建築の業界は「クレーム産業」と呼ばれていた。図面の段階で見積もられたおおまかな金額から、工事が進むごとに追加で費用が発生していく。最初に想定していた工事費用よりも金額が膨れ上がり、トラブルになることがしばしばあった。さらには、仮住まいをしている依頼主が、建築中の新しい家に出向き、午前10時、正午、午後3時、大工らにお茶を入れる。上棟式では、無事に棟が上がったことを祝い、赤飯を炊き、酒を用意する。そして、ご祝儀を工事関係者に配る。こうした伝統的な慣例やしきたりが時代に合わなくなり、顧客はこうしたものが必要のない大手企業に流れていった。「昔は、家を『建てる』って言ったけれど、だんだん家を『買う』って言うようになっていきましたね」。関口さんは時代の変化を敏感に読み取っていた。
「これじゃあダメだ。地域1番の建築屋になるためには、いろいろなことを参考にして新しいこと試していくべきだ」。さまざまな業界の経営者が集まる勉強会に参加したり、木材に関する書籍を読み込んだりし、新しいことを積極的に取り入れた。建築現場では、依頼主がお茶を用意したり、上棟式でのお祝いをしたりすることを廃止。また、コンピューター利用設計システム「CAD」を使用し、詳細な図面を作成し、坪単価ではなく柱一本単位で費用を算出。見積もりを精緻化した。追加工事はしないように徹底した。
営業は「殿様商売ではいけない」と、社長として自らが顧客の元へ足を運び、トップセールを実践。顧客とのやりとりは、これまでの現場での経験が生きた。「土台の木は地元の木が良いとは言いますが、実は経験上、青森のヒバがいいですよ。香りがよく、虫にも強いです」、「うちでは大黒柱はあえて四方差しにせず、正面に置きます。大黒柱はシンボルなので、子どもたちが見たときに『お父さん、お母さんが頑張って建ててくれた家なんだ』と感謝するようになりますよ」。顧客は、木材のストーリーにどんどん引き込まれていく。
交渉力にも長けていた。見積もりを依頼してきた夫婦には、カタログを持参し、「こっちのキッチンはちょっと高いけど、毎日使うところは、お金をかけておいた方がいいですよ。奥さんも仕事がしやすいと思います」。依頼主の妻は目を輝かせている。夫は渋い表情。「費用が上がるのは、総額3000万のうちの10万。どうですか」と関口さんが押せば、夫は「確かにね」と言って承諾した。
家が建っても、顧客との関係は終わらせない。「これから長いお付き合いが続きますからね」と言って、建てた家にはこまめに足を運び、建具や屋根の修理など、家のメンテナンスも丁寧に対応した。すると、質の高い家を見た周囲の人々が「若い社長がやっている太平工業さんはいい仕事をする」と評判になり、瞬く間に口コミで「太平工業」の名前が広がっていった。気がつけば、建設業界では地域一番の有力企業になっていた。
(経営者時代の出来事を語る関口さん。「ファーストレイト練習場」で)
40歳を超えると、生前、父が政治家をしていたこともあり、周囲から「村議になってくれ」との声がかかり始めた。断れない雰囲気があった。「近い将来、専門知識を生かしたトップセールスの仕事はできなくなるかもしれない」。そう思った関口さんは、建設会社をたたむことも視野に入れ、「息子たちに残せる会社を」と考え、1990年、ゴルフ練習場の会社「ファーストレイトゴルフ練習場」を設立。ネットを張り巡らせず、山の地形を生かした練習場を設計した。ゴルフボールも練習用ではなく、コースボールを使用。「実戦に近い練習場」として好まれ、近辺だけでなく、東京などからも練習しにくる人もいる。
経営者として大切にしてきたことがある。「朝令暮改を恐れない」ということである。右に舵を切って失敗したら、また逆に切り返せばいい。失敗を失敗で終わらせない。そう考えると、新しい挑戦をすることにためらわなくなる。「初めから全て成功させられる人なんていない。『違うな』と思ったら、修正していけばいい」。マイナス 150万円から始まった会社は、こうした関口さんの経営哲学と手腕で地域一番の建設会社へと成長していった。(辻和洋)
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シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。
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