平成の大合併
関口定男さんが玉川村長となり、行財政改革が軌道に乗り出した頃、全国で小規模自治体の合併の機運が高まってきた。政府は1999年、市町村の行財政基盤の強化を図ろうと、市町村合併特例法を改正。合併特例債などによる財政優遇措置を拡充し、自治体の自主的な合併を促した。当時、人口約5000人の玉川村も他人事ではなかった。
2003年には、玉川村を含む埼玉県比企郡の8市町村で合併協議会が発足。しかし、足並みが揃わず、たった2ヶ月で破談。同年末には、玉川村を含む周辺自治体3町3村が合併協議会を新たに立ち上げた。しかし、庁舎の場所と自治体の名前を巡って紛糾。結局、話がまとまらず、翌年7月に解散となった。ただ、解散の1ヶ月ほど前、関口さんの元に相談に来た人物がいた。玉川村の隣に位置する都幾川村の大沢堯村長だった。
「このままだと、またしても破断。都幾川村と玉川村でやりませんか」。玉川村の村長室を訪れた大沢村長の呼びかけに、関口さんは「急なことだからすぐに返事はできませんが、考えておきます」と答えた。玉川村は工場誘致なども奏功し、財政的には安定しており、是が非でも合併というわけではなかった。しかし、人口約8000人の都幾川村と合併すれば、1万人を超える自治体となる。さらに、約50億円の合併特例債が得られ、合併後10年間は地方交付税も据え置きされる「算定替え」という優遇制度があることも考えれば、村の将来にとってはよいかもしれない−−−−。関口さんは思い悩んだ。
都幾川町との交渉
関口さんは都幾川村へ出向き、大沢村長の元へ訪れた。「合併の話、考えました。私の提案をのんでくれればいいですよ」。関口さんの提案は、①町の名前、②本庁舎、③町長という、これまでの合併協議会で必ず紛糾してきた3つの案件を先に決めておくというものだった。
「私からすると、玉川という名前は120年の歴史があるので残したい。都幾川は庁舎を残すというのはどうだろうか」と関口さんは持ちかけた。しかし、大沢村長は「いやぁ、名前がほしいな」と反対。最終的には、名前は都幾川、本庁舎は玉川村役場に決まった。残すは町長。大沢村長は「町長は関口さんに任せる。私は野球の監督になりますよ」ときっぱりと話し、町政を関口さんに託した。「じゃあ、進めましょう」。トップ同士の約束が交わされた。
2004年11月、玉川村と都幾川村の合併協議会が発足。会長には関口さんが就任した。住民や議員で構成される約20人の協議会の委員は「なんで勝手に名前と庁舎を決めたんですか」と、関口さんに詰め寄った。関口さんは「いつもこの問題で合併の話が壊れてきました。他に方法はありますか」と話すと、全員が黙った。
関口さんの後援会の人々も「なんで勝手に決めるんだ。玉川村の名前がなくなるなんてあり得ない」と反対した。関口さんは「名前が消えて1番寂しいのは私ですよ。私の父が初代の村長を務めた玉川村の名前に愛着がないわけがない。村の将来を考えて進めているんです。町長には私がなるからどうかやらせてほしい」と訴えた。
議員定数で紛糾
合併に向けて最も苦労したのは議員定数の削減だった。都幾川村14、玉川村12、計26の議員定数を一気に16まで減らさなければならなかった。議員からは大反対があったものの、議長の元へ何度も足を運び、「何のために合併したのか、住民に示しがつかない。何とか減らしてほしい」と説得。しかし、合併協議会最終日までに結論は出なかった。
最終日の前日、関口さんは協議会の事務局長に2つ案を作るように頼んだ。一つは「定数16。在任特例あり」の案、もう一つは「定数16。在任特例なし」の案だった。在任特例は、合併後2年以内は現職議員全員が在任でき、議員の身分を失わないという合併特例法に基づく制度。関口さんは、協議会では、まず「在任特例あり」の案を提示し、「在任特例なし」の案は伏せておくようにと指示した。そして、晩に各委員に電話。「明日、議員定数に関して皆さんに意見を聞くから、本音を言ってほしい」と伝えた。
協議会最終日。議員定数の議題で、住民側の委員から「16人じゃ多すぎる」、「特例なんてあったらだめだ」という意見が続々と出た。議員側の委員は「ちょっと待ってくれ」と返した。議論は膠着状態に陥った。関口さんは「皆さんの意見を聞いていると、採決を取ると半々になる。しかし、3分の2以上の賛成がないと議案は通らない。せっかく今まで協議してきたけれど、このままでは合併の話が水の泡になってしまいます。議員の皆さん、しばらく別室で話し合ってもらえませんか」と促した。議員側の委員が約30分間、別室で話し合った。最終的には「在任特例を使わず、定数16」という結論が出た。
最後に事務局から事前に用意していた「定数16。在任特例なし」の案の資料が配られ、読み上げられた。「皆さん異議ありますか」。関口さんが委員に尋ねると、「異議なし」と全員賛成で話がまとまった。合併が決まった瞬間だった。
2005年3月5日、ついに玉川村と都幾川村の調印式が行われ、同年8月に告示、2006年2月1日に新しい町ができることが決まった。「本当に大変な道のりだった。難しい問題は先に片付けておくことの重要性を知った」と関口さんは振り返る。
まさかの町長選挙
紆余曲折あった村の合併が決まり、安堵していた2005年の夏頃だった。関口さんの耳に妙な噂が入って来た。「都幾川村長の大沢さんが出馬するようだ」。そう話す人々に「最初に約束してある。そんな話があるわけない。ないよ」と笑って返していた。しかし、あちこちから話が入ってくる。不思議に思って、大沢村長を夕食に誘った。
食事がひと段落した頃、関口さんは、それとなく大沢村長に尋ねた。「大沢さんが出るという噂があるけど、嘘だよね」。すると、大沢村長は「いやぁ、出たくないんだけど、周りがどうしても出てくれというから出なくちゃいけないことになって」と話した。関口さんは意外な一言に驚き、「それはないんじゃないの」と返した。トップ同士の約束は破られ、関係が決裂。町長選に突入することになった。
人口が都幾川村8000人に対し、玉川村は5000人。合併に伴う選挙は現職同士で戦うことになる。人口の少ない村が圧倒的に不利な状況のなかで、関口さんは勝つための方法を必死で考えた。翌年2月の選挙投開票日まで半年以上あった。「3ヶ月あれば全戸回れる」。投開票日までの日数を逆算し、「ドブ板選挙」を展開。平日は午後5時に公務が終わってから約2時間、休日も夕方に、「あいさつに伺いました」と一軒一軒握手して回った。「太陽が西から昇っても勝てないよね」。そう言ってくる有権者もいた。それでも「いやいや、積み重ねですから」と言って、頭を下げた。
12月。軒先で声をかけると、お年寄りがこたつから出てきて玄関で握手する。「手が冷たいね。村長さんも大変だね」とねぎらってくれた。関口さんは「こりゃいけないな」と感じた。「手が冷たいと同情心ばかりを買って、関口という人間に意識を向けてもらえない。きちんと人柄を伝えるためには、同じ温度、同じ目線で握手できるようにしないといけない」
翌日からはポケットにホッカイロを入れ、握手する前に手を温めておくようにした。「あら、関口さん手が温かいね」。住民がそう話すと、「心が温かいですから」とすかさず冗談を言った。笑いが起こり、和やかな空気が生まれた。こうした小さな工夫を凝らし、選挙戦までに玉川村と都幾川村計4500軒を回った。「これはいけるかもしれない」。握手の力の入れ方や応援してもらっている空気を感じ取り、手応えを得ていた。
選挙戦では、太平工業時代の従業員やその家族らも「恩返し」と言って大勢手伝ってくれた。まさに総力戦で臨んだ。投票結果は、4663票対4275票で、関口さんが見事、当選を果たした。関口陣営は泣いて喜んだ。「こんなに嬉しい日はない。自分の結婚式の時よりも嬉しい」と喜ぶ支援者もいた。数字だけ見ると僅差に見えるが、人口差を考えると圧勝だった。
「表面だけをわかってもらってもダメ。自分という人間を直で感じてもらうことが信頼感につながる。結局、人の気持ちを動かすのは、気持ちなんですね」。努力をいとわなかった関口さんは、住民からの厚い信頼を得ていた。(辻和洋)
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シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。
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