「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」4

「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」4

(柏俣昌平・埼玉県玉川村長(当時)と握手を交わす関口定男さん(右))

周囲に促され、政界へ。一筋縄ではいかない政治家人生の出発点

 「お金儲けはそろそろいいんじゃないの」。40歳を過ぎると、周囲からは度々、そう声をかけられるようになった。経営者として地域有数の有力企業に成長させた関口定男さんは、父が村長であったこともあり、地域の人々から政治の世界でも活躍してくれることに期待を寄せられていた。
 幼い頃から、自宅の隣の部屋で父が友人らと、政治の話をしているのを耳にしていた。決して甘い世界ではない。仕事もろくにできなくなる。これまで苦労して蓄えてきた財産を全て失うかもしれない。悩んだ。それでも「断りきれなかったですね。ここまで会社が順調にやって来られたのも周囲の人たちが支えてくれたおかげでしたから」
 1991年、埼玉県玉川村の村議選に出馬。「トップ当選してはいけないぞ。敵を作らない方がいい」。知名度は十分。当時43歳で、若さも際立っていた。建設業は、人生の大きな買い物に携わる仕事。社長としてトップセールスで多くの村の人々の元へ営業に出向いていたこともあり、すでに多くの有権者と深い信頼関係で結ばれていた。むしろ「票を取りすぎないことに気を配れ」と、柏俣昌平村長(当時)や先輩議員にアドバイスを受けた。トップ当選をすると、落選した候補者らの恨みを買ってしまう。将来、村長になることを見据え、有権者だけでなく政治家らにも支持されなければいけないという教えだった。
 選挙戦では有権者に会うと、「地元の付き合いがあると思いますので、旦那さんと奥さんはいいです。娘、息子さんの1票か2票でいいので、お願いできませんか」と頼み込んだ。そうすると、有権者の顔もその地域選出の候補者の顔も立てられる。「勝ちすぎないが、負けない」選挙戦を展開し、思惑通り3位で当選を果たした。

(玉川村議時代の関口さん(右端)。柏俣村長(左から2番目)や議員らと)

 村議になると、多くの人が大事にしてくれた。先輩議員からは政治家としての立ち振る舞い、議会運営の流れなどを学んだ。敵を作らないように、委員長や議長は他の議員に譲った。柏俣村長は、関口さんが経営していたゴルフ練習場のオープンの際に駆けつけ、祝いの言葉で「私の後に村長になってもらいたい」と公言。さらに、会合などで会う度に「後を継いでくれ。一番いい時に辞めたい」と次期村長就任の打診をしてきた。しかし、関口さんの妻は大反対。従業員らも「社長に抜けられると困る」と訴えた。柏俣村長には「まだ若いし、仕事もある。やるつもりはありません」と返事をしていたものの、村長の奥さんにも頼まれ続け、思い悩んでいた。
 柏俣村長が6期目の任期満了を迎える前年の秋。関口さんは、玉川村長に立候補することを決断した。夜になって、柏俣村長の自宅に、先輩議員と2人で訪問。「出ることを決心しました」と言うと、柏俣村長の顔色は真っ青になった。そして、8畳間の座敷で正座し、「悪い。確かに村長になってくれと言ったけど、本音はあと1回やりたい。やらせてほしい」と頭を下げてきた。政界の大先輩に頭を下げられ、動揺した。理由は、あと1期やれば、勲章で「勲4等」になれること、埼玉県の町村会長になれるということだった。「私は自ら出たくて言ったわけではなくて、柏俣さんと奥さんが一番いい時にやめたいと言うから、妻や従業員を説得しました。柏俣さんが出るんだったら、初めから出るつもりはありません。出ませんから大丈夫です」。関口さんはそう返事をした。

 「だまされた」。関口さんは自宅に帰り、大泣きした。悩み抜いて、妻を口説き、従業員にも伝えて覚悟を決めた。「こんな人を尊敬していたのか」。続けたい理由が、やり残した政策があるということだったらまだ理解できた。しかし、告げられたのは村長自身の「名誉」のためだった。「本当にがっかりしましたし、こんな政治の世界はもう嫌だと思いました。二・二六事件当時に首相だった岡田啓介が言っていた言葉があります。宰相になって6年経つと、見えなくなることが3つある。お金が見えなくなる。人が見えなくなる。自分が見えなくなる」
 権力を持った為政者の引き際の難しさ、立ち振る舞い……。それを痛感した体験だった。しかし、後にこの経験が関口さんの「政治家はどうあるべきか」という自身の考え方に大きな影響を与えた。(辻和洋)


シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。

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