「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」5

「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」5

(村長として、村議会に臨む関口定男さん(中央左))

ゼロからスタートを切った玉川村長時代

 玉川村の村議だった関口定男さんに「もう1期やらせてほしい」と懇願した柏俣昌平村長(当時)は、予定通りもう1期、村長を続けた。しかし、長期政権のなかで、議会や役所のポストは固定化され、村の政治が滞留する雰囲気が漂っていた。次第に柏俣村長の求心力が落ちてくると、やはりまた関口さんを担ぐ声が大きくなってきた。

 一度は「次はやらない」と決めた関口さんも、近所の人や会社の得意先の人から事あるごとに「村長になれ」と言われるなかで、最初は拒んでいたものの、村議は続けることにした。村議2期目は、議会で役場の職員が答弁するのを聞きながら「あの課長はあまり答弁がうまくないな」、「自分だったらどう答弁するかな」などと、議員とは逆の立場で物事を考えるようになっていた。「家柄の宿命。断りきれない」。村長だった父の長男として生まれ、幼い頃から政治の世界を見聞きしてきた。周囲から常に「次期村長」という眼差しを向けられていた。結果的に、村議時代は村長になるための十分な経験を積む場になった。

 柏俣村長の任期満了の約半年前、村長に立候補を表明。当時の村議会議長らも出馬の噂があったが、関口さんが出馬表明すると、誰も立候補をする者はおらず、無投票当選となった。1999年5月、関口さんは役場の職員に拍手されながら迎え入れられ、玉川村の村長に就任した。

(村長に就任し、花束をもらって、初登庁する関口さん(中央))

 しかし、村長就任は、波乱の幕開けだった。「お父さん、このままだと会社が危ない」。妻に託した「太平工業」は、急激に業績が悪化。関口さんがトップセールスで受注していた案件が多く、関口さんが抜けたことが大きな打撃となっていた。周囲から「すぐにつぶれるぞ」という噂まで流れ始めた。ますます仕事が減っていった。

 「今なら会社をたためる」。妻と資金繰りについて話し合った。職人や職員に支払わなければならない金額が約5000万円。これまで必死に働いて貯めてきた貯金や子どもたちの学資保険を引き出し、手形も買い戻した。家にあった財産を全て現金化すると、ちょうど支払える額になった。支払いが必要な約50人に封筒を用意し、現金を入れた。

 肌寒くなってきた11月の夜。村長の公務を終えた後、太平工業に関わる職人・職員全員に集まってもらった。「大変お世話になりました。本当に申し訳ないけど、今なら全部現金で支払えます。会社をたたませてほしい」と伝え、封筒を一人ずつ手渡した。長年一緒に働いてきた職人の中には、涙をこぼして泣く人もいた。太平工業の専務が新しい会社を立ち上げることになり、そちらに得意先を全て引き継げるようにと、仕事に必要な全ての機材と、父が村長時代に得た下四桁が「0008」という末広がりの電話番号も譲った。父から後を継ぎ、約25年にわたって経営者として必死に走り続け、発展させてきた太平工業は1999年に幕を閉じた。「寂しかったですね。いきなり無一文になりました。あの頃が一番苦しかった。父の言っていたようにいきなり『井戸塀政治家』になってしまった」

(「何かを掲げる時は3つにすることが大事だ」と話す関口さん)

 51歳にして、ゼロからのスタート。会社も財産も失った。「村長になったからには、これまでの知識と経験を存分に生かそう」。27歳から50歳まで民間企業の社長として経営に携わってきた手腕をふるう時が来た。覚悟は決まった。そこで、行財政改革のために打ち出したのが、「イノベーション」「オリジナリティ」「ローコストマネジメント」という3つのキーワードだった。(辻和洋)


シリーズ「小さな町の改革〜地方創生のカギ〜」は、旧玉川村長、ときがわ町長を計5期19年務めた関口定男さんの人生を辿り、「地方創生のカギ」、「政治家としての手腕」とは何かを追いかけ、これからの行財政のあり方、政治家の育成について考えます。月1回記事を更新する予定です。

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